あやめ野スミアル
9
ついにこの日が訪れた。
有史以来の長命を誇った『新あやめ野スミアル』の新館が建てられていたあやめ川支流域の理を統べていた主が
その統治を放棄するに至り、新館の維持が出来なくなったのである。
この地に新館が建てられてから実に6年余りの時が流れ、ここでの静かな暮らしが自分そのものとなっていたであごるにとって、
その衝撃は計り知れないものであった。
『おぉ、スメアゴル。我が根源の主にして汁気の君よ。我が滅びの日はかくして降り掛かって参ったのです』
この地における新館での暮らしの終わりを悟ったであごるは、悲嘆のうちに罅裂へと向かった。
『スス、ススス…』
主は闇の中に紛れていた。汁気の滴る音が聞こえる。おそらくは汁けたっぷりのさかなをお召しになられているのだろう。
であごるは心の中で『であごるの部屋』の水槽が空となった情景を思い浮かべつつ、その身に突如降りかかった災厄について話し始めた。
『おぉ、スメアゴル、我が根源の支配者よ。風の便りが穏やかならざる噂を運んで参りました。このあやめ野スミアル新館が終わるのです』
であごるはこの地を覆いつつある暗黒の影を振り払うが如く両手を振り上げた。
『ス・ススス・スス…』おそらく主がいるであろう闇の方から啜り声が漏れている。そして沈黙。
何を考えておられるのだろう。かつて旧スミアルに住まい、そしてその地を追われた日々か。
それともそのきっかけとなった大崩壊によって地に埋もれた記憶だろうか。
自らが発した言葉の深刻さに打ちのめされてその後を継ぐことが出来なかったであごるが、沈黙に耐えられなって再び主の名を発しようとした時、
主が啜るような声で喋り始めた。
『スス・ススス・スス…、終わりかね?シミアル終わるのかね?スス・・・』その声は永遠に取り戻すことが叶わなくなった愛しいしととの惜別を思わせるものがあった。
『駄目なのよ、終わったら汁気なくなるのよ。根源無くなるのよ。ススス…そしたらわしらいなくなるのよ。スス・・・』
明らかな動揺が感じられる声の揺らぎが暗闇にこだました。
『おぉ、スメアゴル。この地を統べておられる者がその統治を止めるのです。この地は統制が効かなくなり、「あやめ野スミアル」は魔力の暴走に抗いきれなくなるでしょう』
そして新館は閉鎖されるのだ。最後の言葉は自らの心の中でのみ発せられた。そうすることが最後の抵抗だったのだ。
『ススス…スス…駄目なのよ。わしら根源見つけるのよ。シミアル無くなったらその道消えるからよ』
根源の主スメアゴルは尚も声を震わせて闇なる闇の到来を嘆いた。
だが、如何なる試練も根源への渇望の前では空気の如く流れて行くものだった。
『ススス・・スス・・しっこすのよ。ススス…そうよ』
『わしらこのシミアルにいるのここで生まれたからよ。生まれた所にシミアル建てたのよ。シミアルしっこせば、そこ生まれた場所になるのよ』
根源の主の御言葉は暗黒に包まれたであごるの心を一筋の光となって貫いた。
そうだ、そうだったのだ。確かに我が主もであごるもこの地があったからこそ生まれた。そこから逃れられない宿命があるのはそのためだ。
だが、であごるをであごるとしたのも、我が主を主としているのも、この『あやめ野スミアル』があったからこそだ。
『あやめ野スミアル』があれば、根源もまたそこにあるのである。
いつからか、この新館が主とであごるにとっての全てであるかのように錯覚していたようだ。新館はあくまで『あやめ野スミアル』の一部。
『あやめ野スミアル』があれば、その館がどこにあれ、根源への道は繋がり続けるのであろう。
『おぉ、スメアゴル。道は拓かれました。この地を捨てて、引っ越しましょう。新たな地において新たな『あやめ野スミアル』を建設するのです』
『さすれば何も終わらないのです』
こうして、有史以来最も長く居を構えることになった新館は、その役割を終えたのである。西暦2011年12月1日のことであった。
そして、新たな館が建てられることとなった。
だが、建設にかかる手間暇を考えると気が遠のく思いがしていた。これ程長く生活の一部と化して来た館と同じような館をもう一度建てられるだろうか。
それを成すにはどれ程の叡智と忍耐を要するのだろうか。であごるは途方に暮れつつ『あやめ野スミアル』の展望を巡らしていた。
であごるの心を見透かしたような言葉が主から発せられた。であごるは静かに頷いた。全ての答えは見つかったのである。
館の原型はここにあるのだ。そのまま運んで使おうじゃないか。根源への道しるべとして。
こうして新あやめ野スミアルは、故あやめ野スミアルを元にして建てられたのである。決して手を抜いた訳ではない。
新あやめ野スミアル俯瞰図(353kb) | 新あやめ野スミアル各館案内(353kb) |
その場所は故あやめ野スミアルと旧あやめ野スミアルのあったお山の麓から尾根沿いに登って行った中腹、支稜の一つにある。
新あやめ野スミアルから故・旧あやめ野スミアルまでの配置図(251kb) |
『スス・ススス・・・』その時である。主が切実なる懇願を吐露した。
『汁気もっと欲しいのよ。シミアル乾いたら駄目なのよ。汁気いっぱいないと駄目なのよ』
こうして『新あやめ野スミアル新館』には汁気に満ち満ちた新たな館、『あやめ野水族館』が建て加えられることとなった。